死ぬために生きる

このブログのタイトルとなった「生きるために死ぬ」という言葉を語る前に、まずこの言葉の逆である「死ぬために生きる」という言葉について語りたい。

「何のために生きているのか」という問は誰もが一度は疑問に思うようなありふれた問であるが、これに対する哲学的な答えとしてよく取り上げられるものが「死ぬために生きる」である。

有限時間を生きる者にとってこの答えはかなり正解に近いように私は思う。前回の記事の中で触れたが、現在の私は輪廻転生を信じており無限時間を生きているが、高校までの私は有限時間を生きていた。そのときの私の人生における目標は「死ぬ瞬間にどれだけ幸福になれるか」であった。当時の私の価値観では幸福というのは一時的なもので現在の幸福には価値がないと思っていた。例えば、夢にまで見た美しい彼女と念願が叶い付き合うことができ幸福の絶頂を迎えたとしても、次の日彼女が寝取られたら一転して絶望に転落する。またそのさらに後に彼女が寝取られたという話は私に嫉妬する何者かのデマであることがわかり、彼女は未だ穢れなき身であることがわかればまた一転幸福になる。

確かに人間は幸福を求めていて、幸福になれば不幸であった過去が全て肯定されるだろう。しかし、幸福というものは一時的なものであり、幸福であった後に不幸になった場合幸福であった過去はすべて否定される。そう考えいくと、その先に人生のない「死の瞬間」に幸福であるということこそが私の目指すべき目標である。当時の私はそう考えていた。(ただし今では全く逆の幸福観を持っている)

「死ぬために生きる」という言葉は、目的を数十年先などではなく人生の終焉に置いている。最終的な目的を意識して今を生きることを助長する。短き人生を現在の快楽で浪費しがちな人間を戒める言葉としていい言葉であると思う。


ただし、「死ぬために生きる」という言葉が「生きるために死ぬ」という言葉の対立概念になるときこの言葉は否定される。

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