生きるために死ぬ
多くのものは死ぬために生きている。生きるために死ぬものは幸いである。
ミハイル・ナイーミ「ミルダッドの書」 p.162
生きるために死ぬ。私はミルダッドの書の中でこの言葉に出会った。この言葉に出会ったときの第一印象は「意味がわからない」だった。目的を達するために目的と逆のことをするという言葉は数多く存在する。しかし、そういった言葉の中で論じられる相反は可逆性のあるものであることが大半である。一方、生死は不可逆だ。死んだのち生き返ることはできない。
意味がわからないと思いながらも、この言葉は出会ったあと一定時間私の心の中に木霊し続けた。音楽が頭にこびりついて離れない現象をイヤーワームというそうであるが、この言葉によって私にもたらされた現象は言葉が頭にこびりついて離れないマインドワームとでもいうべきものだった。
心の死と身体の死
「生きるために死ぬ」という言葉における生死は肉体の生死ではないことは確かである。ではなんの生死かというと二通りの組み合わせが考えられる。
まずひとつ目の組み合わせは「心と身体」である。つまり「心を生かすために身体が死ぬ」ということである。これは葉隠に見る「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉とほぼ同じような意味であると私は考えている。
人間は生物であるが故に生きようとすることは本能であり、生きるか死ぬかの二択を迫られたとき前者を選択するのは動物としては自然である。しかし、武士道においては死を選択することが殆どの場合正しき選択となる。武士道とは、主君に一生誤りなくご奉仕し尽くすことであり、例え惨めな犬死であったとしても主君のために死ぬということが武士道に背くということはありえない。けれども、生きることが武士道に背くことはありうる。例えば仲間の命を売れば自らは助かるなどだ。ただし、状況によっては生きても死んでも武士道として正しいという場合も存在するだろう。
つまり、武士道において生は間違った選択にも正しい選択にもなりうるが、死は必ず正しい選択になるということをこの言葉は言っているのである。(もちろん、ここで論じられている死は意思決定として死であり、災害や病気などによる自然死を言っているのではない。それらはできるだけ避けるべきだろう。)
ここまで読んで、「武士のような死と隣合わせの職業に対してはこの言葉は通用するかもしれないけれど平和な現代においては全く通用しない言葉ではないか」という反論を持たれるかもしれないが、平和な現代においてもなおこの言葉は価値を持っていると私は思う。
現代では確かに意思決定としての死に直面する場面は全くないと言ってもいいだろう。しかし、最終的に死につながるという場面は日常生活で多々存在する。例えばある会社員に会社から重大な命令が下り、その命令は遂行しなければ解雇されるが、同時に自分自身の倫理観には反する非人道的な命令であっとしよう。このような場合、命令に背き解雇されるということは、自己の生活が脅かされるということであり、すなわち死に近づく行為である。十分な金銭を持たないほとんどの人にとって、仕事というのは第一に生活のために行うものである。仕事をした対価として金銭を得、それをもとに暮らしていく。(より根源的には、死が怖いから仕事をすると言ってもだろう。)
従ってこの状況は、突き詰めると身体の死に近づくような行為と自分の心情に従う行為とが天秤にかけられるような状況ということができる。
そのような状況においては、武士道と同様に常に自分の心情に従って死に近づく方を選べといいたいところだ。しかし、現代を生きる我々は武士道のような「主君のため」という明確な目的や時間をかけて醸成されてきた倫理観もない。我々が歩んでいる道は、曖昧で、複雑で、いろいろな観念がうずまいていて、どれに従えば良いのかわからない。現代においてまず重要なことは自分の道を見つけるということだ。「大事な思案は軽くすべし」と葉隠も言っているが、「自分にとって死よりも重要なものはなにか」ということは常に説い続け、自分の道をしっかりと持ち、重要なときに悩まず決断できるようにしておきたい。そして、死もしくは死に近づく行為と自分にとって重要な信条とが天秤にかけられたとき、常に後者を取るような心構えを持っておきたい。
己の死
そして、「生きるために死ぬ」という言葉の2つ目の組み合わせは「自己」と「自己」である。この意味こそ、ミルダッドの書において説明されている意味である。
前文を付与してミルダッドの言葉を再度引用しよう。
ベヌーン「一つの自己の否定が他の自己の肯定であり得るのですか。」
ミルダッド「そう、自己を否定することは、<自己>を肯定すること。変化に対して死ぬことは、不変なる者へと生まれ変わること。多くのものは死ぬために生きている。生きるために死ぬものは幸いである。」
ミハイル・ナイーミ「ミルダッドの書」 p.162
一見、何を言っているのかわからないかもしれないが東洋哲学では普段我々が自分だと思っている自己とは別の自己を考える。今回は仏教の理論を用いて簡単に説明しよう。
仏教では自己に「自我(小我)と「大我」と「真我」という三種類が存在し、「小我は大我を経て真我に至る」と説明する。自我というのは我々が普段自分だと思っている五感で感じ取ることのできる自己のことであり、いわゆる「意識」のことである。デカルトの「我思う故に我あり」という言葉はまさに自我を現しており、自分で意識して感じ取ったり考えたりしていることが自分なのだと思っている。ほとんどの人の考える自己というものはこの自我のことであると思っていただいて構わないだろう。
更に、自分という狭き器から離れた世界のありとあらゆるものの集合 ー 神と表現してもいいかもしれない ー の意志を「大我」という。ウパニシャッド哲学の根本思想に梵我一如というものがあるが、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)とは「大我」を意味し、我(アートマン:個人を支配する原理)は「自我(小我)」を意味していて、その2つが同一であると悟ることによって永遠の至福に達しようというのが梵我一如である。
そして、「大我」を理解できるようになると自分という主観的な目線から離れ、大いなるものの目線から俯瞰して自己を見つめることにより自分の立ち位置を真の意味で発見することができる。それが「真我」である。
「生きるために死ぬ」という言葉はこのように自己が死ぬこと、すなわち大いなるものの中に溶け込むことによって、かえって真の自己を獲得するというプロセスを現している。このことは個性の回でも取り上げていて、複数回述べるほどに私にとっての重要なテーマである。
私は矛盾した表現が好きだ。なぜなら神は矛盾を解消したところにではなく、矛盾を同時に保持したところに存在すると思っているからだ。「生きるために死ぬ」という矛盾した表現に私は神への道を見る。
最後に宮沢賢治の名随筆「農民芸術概論綱要」から序論を引用して終わりにしよう。
……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
宮沢賢治 「農民芸術概論綱要」より序論
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2018.07.08 23:07
2018.07.08 15:49