夢と道
今回は、私のあまり好きではない言葉として「夢」を、そして好きな言葉として「道」を取りあげる。
私がここでいう夢はもちろん眠っている間に見る夢ではなく将来実現させたい希望としての夢であり、また道とは武士道や茶道、人道といった言葉に用いられている道のことで、ある特定の分野の理を究めんとする心の働き、またそこに到達するまでの過程のことを言う。双方ともに到達目標を表現する観念であるが、この二つの言葉には大きな違いがあると私は考えている。今回の記事ではこの二つの言葉を対比させながら、夢という言葉に対する批判と道という言葉に対する賞賛を行いたい。
「あなたの将来の夢はなんですか」。 殆どの日本人が人生の中で一度はこう問われた経験があるだろう。夢という言葉は現代の日本ではあまりにも馴染み深い言葉になっている。しかし、実はこの言葉はdreamの訳語として明治時代になって西洋から輸入された言葉であることをご存知だろうか。
私は夢という言葉を西洋的なものとした場合、それに対する東洋的なものは道という言葉ではないかと思っている。道はもともと老子や孔子などが用いた中国哲学の言葉であり、中国語ではタオと呼ばれる。英語ではそのままTaoであり、wikipediaの説明では「Tao is a Chinese word signifying 'way', 'path', 'route', 'road' or sometimes more loosely 'doctrine', 'principle' or 'holistic science' . 」となっている。 では、この二つの東洋的なものと西洋的なものの違いはなんだろうか。その大きな違いは「終わりがあるかどうか」にあると私は考えている。
夢は将来の点を指す言葉である、故に終りがある。もちろん、夢は完全な点ではなく、ある程度の長さを持つ線分であるという場合もあるであろう。例えば、野球選手を夢見る小学生はプロ野球球団に採用されるという点を目指しているのではなく、プロとなって活躍するという線分を目指している。しかし、夢に長さが有ったとしてもそれは有限であり、終りがある。
それに対して道には終わりがない。道はいつまでも続く。道は到達したい未来の点もしくは線分を意味するのではなく、現在の方向を意味する。道を歩む者にとっての終わりは自分で道を歩むことを辞めると決断したときであり、終わりが自分の権外から訪れることはない。また、道を点を目指す行為として当てはめるとしたならば、その目指している点は無限遠点であると言うことができる。即ち、道の先は無限の彼方にある。
まとめると、夢は有限の点もしくは線分を指す言葉であり、夢を追うとはその点もしくは線分に向かって近づいていく動きである。そして道とは無限遠点を目指す行為であり、目指すものが無限遠点であるから絶対的に近づいているという概念はなく、ただ現在の方向性のみを意味する。このような特徴から、夢が結果に対するコミットであるのに対して、道は過程に対するコミットであり、また夢が未来に対するコミットであるのに対して、道は現在に対するコミットであると言い得るだろう。
このように西洋的な夢に終わりがあり東洋的な道に終わりがないというのは西洋と東洋の死生観の違いに深く関連しているように思われる。つまり、輪廻転生を信ずるか否かである。輪廻転生を信じない者にとって今生の肉体の死は即ち己の存在の死であり、己は有限の存在である。一方、輪廻転生を信じる者にとって今生の肉体の死は己の存在の死を意味せず、己は幾度も続く輪廻を生きる無限の存在である。前者の考えに立った場合、道の進む先にある無限遠点には理論的に到達することが不可能であるが、後者の考えに立った場合己に与えられた時間が無限であるがゆえに無限遠点に達することは理論的に可能である。
また、この西洋と東洋の死生観の違いに関連して道を歩む者よりも夢を追う者の方が人生において大きなインパクトを残しうるということも言えるだろう。20世紀で最もインパクトを与えた人物の一人であるスティーブ・ジョブズはスタンフォード大学におけるスピーチの中でこう言っている。
Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life.
Steve Jobs
己に与えられた時間が限られているという西洋的考えに立った場合、与えられた時間内で大きな足跡を残そうと努力する。禅に傾倒したジョブズであってもやはり有限時間内を生きた者であった。 一方で、己は無限的存在であるとする東洋的考えに立った場合、無限に与えられた時間の中で重要なことは大きなことをすることではなく、むしろ小さくても正しいことをすることであると言えるだろう。西洋人にとっては事の大きさが重要であったのに対して、東洋人にとっては事の正しさが重要であったように思われる。それが故に西洋人は世界を大きく変動させ、東洋人は世界を少しずつ好転させる。
そして、この2つの価値観を統合させた深い叡智を、私はガンディーの有名なこの言葉に感じる。
明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。
マハトマ・ガンディー
やや話が脱線してしまったが、ここからは夢という言葉が私のあまり好きではない言葉である所以を見ていこう。
夢という言葉には複数の問題が存在すると私は考えている。 夢という言葉の第一の問題は、夢には少なくともある程度は虚栄が混じっているというである。夢は結果に対するコミットであると述べた。スポーツを志す者がオリンピックにおける金メダルを、科学を志す者がノーベル賞を夢見る。これは結果に対するコミットである。しかし、一切の虚栄心のない純粋な魂が結果を求めるということがありうるのか。純粋にスポーツを愛する者が、そのスポーツを楽しみ極めんとすることではなく、社会に対して現れる結果を求めることがありうるのか。もちろん、純粋にスポーツを愛する者でもオリンピックに憧れ、一目標としてそこを目指すことはあるだろう。しかし、本質的には彼はそのスポーツの道を歩んでいるのみであり、目標はその過程においての一つの指標にすぎない。一切の虚栄を持たず、純粋な心情と謙虚な精神を有する者が、外的に現れる結果に対してコミットすることは考えられない。その点において、夢にはある程度の虚栄が含まれる。
それに関連して生じる夢という言葉の第二の問題は、夢を追うことによって虚栄的になることである。社会は青少年に夢を抱くことを求める傾向にある。始めはただ純粋にそのことをすることのみが楽しくて行っていた少年が夢を持つことを強制されることにより、自分の内部からでた純粋な心情は薄れ、外部に向けて結果を提示するための虚栄的な心情へと変わっていくことがありうる。しかし、虚栄心は物事を良くも悪くも上昇させる力を持っているということもまた事実であり、上述したように道を歩む者よりも夢を追う者の方が人生において大きなインパクトを残しうるだろう。とはいえ、それは外部からみた結果だけのことであって、その人自身の幸福から考えた場合、果たしてどうであろうか。
続いて夢という言葉の第三の問題は、夢の現在に対する影響力の低さである。夢は夢と同様に未来に対するコミットである目標という言葉から比べても、より遠い未来に対するコミットである。未来は遠ければ遠いほどより漠然となっていくため、それゆえに現在に対する影響力は小さい。20年後の夢と1週間後の目標のどちらが現在に対する影響力が大きいかは明白である。もちろん、夢を小さな目標レベルまでブレイクダウンすれば同等になるという指摘はもっともであり私も同意するところであるが、多くの人がそう出来ずに夢を夢物語として終わらせているのもまた事実であり、それは言葉としての夢の現在に対する影響力の小ささを物語っている。
以上夢という言葉の問題について三点取り上げたが、そのどれもが夢は未来の点もしくは線分を意味するということから生じている。それ故に一時的であり、漠然とし、虚栄的である。
一方、道という言葉はそれに対して永続的であり、判然とし、謙虚である。道を歩む者の行く先は無限遠点であるが故に彼が目的を完遂することは永遠になく、絶対的な進歩というものが存在しない。彼には結果などというものはなく、ただ純粋な「道を歩んでいる」という過程のみが存在する。彼は目指している無限なるものの前にへりくだり、謙虚な心を持ち、漠然とした未来ではなく久遠の彼方から逆算された判然たる現在を生きる。
私は常に理想主義者つまりイデアリストでありたいと思っている。多くの人は理想という言葉を聞いた時に実現可能な理想を思い描く。しかし、本当の理想とは実現不可能で概念上にしか想起出来ないものである。実現できない理想を求めるイデアリストは到達できない無限遠点を目指す道を歩む者と同一である。道を歩むということはイデアリストであるということである。
夢にも叶う夢と叶わぬ夢が存在する。私が否定してきたのは前者であって、後者に関してはむしろ肯定する。叶う夢が有限の点もしくは線分であるのに対して、叶わぬ夢は無限遠点である。道を歩むということは決して叶わぬ夢を見るということである。
時間空間を生きる我々はどうしても現実的な目標を設定してしまう。しかし、消えることのない永遠の価値を生み出した巨人たちはすべからく遥か彼方の無限遠点に向けて全力で邁進した者であったように思う。
彼らのように無限なるものに対する深き情熱を持って道を歩むもので私はありたい。
決して達し得ないほどに高く、けれども現実を支配するほどに深い、そんな理想を抱きながら、生きたい。
叶えられる夢ではなく決して叶うことのない夢をいつまでも見ていたい。
世慣れた利口な人達は親切そうに私にたびたび云ってくれた、「君はトロイメルだ。その夢は必ず絶望において破れるものだから、もっと現実的になり給え。」私は年も若いし経験も貧しい。けれど私の心は次のように私に答えさせる。「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつまでも夢見るものだと思っています。」
三木清
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2018.05.21 01:03
2018.05.20 16:22