塵も積もれば山となる


好きな言葉・あまり好きではない言葉

今回から「好きな言葉・あまり好きではない言葉特集」というものを開始することとした。

 私は、言葉というものにはとても強い力があると考えている。言葉は発される相手に影響を与えるのみでなく、発する主体である自分自身の人格にも大きな影響を与えうる。次の文章は私が非常に愛好する文章であり、言葉の力を端的に表した古典的名文である。 


はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。

 新約聖書 ヨハネによる福音書第1章第1節  


また、お気づきのようにこのブログのタイトルを「生きるために死ぬ」に決定した。このブログは内容に重きをおいて形式は軽んじていたため、タイトルは未決定のままとなっていたが、最近いい言葉を見つけたのでそれをタイトルとした。この言葉についてもこの特集中で取りあげることとする。


 更に補足として「あまり好きではない言葉」という婉曲な表現に触れておきたい。私は意図的にこのような婉曲的表現を用いているが、「あまり好きではない言葉」というのは実質「嫌いな言葉」である。言葉は人格を形作る。故にネガティブな言葉はあまり使わないほうが良いと思い、このような表現となった。


この一連の記事を通して、 私の好きな言葉、あまり好きではない言葉を知る事によって私という人間の価値観を知り、また読まれている方自身の価値観を見直すきっかけとなれば幸いである。


塵も積もれば山となる 

まず初回に取りあげる言葉は「塵も積もれば山となる」である。 この言葉は、私にとってあまり好きではない言葉の筆頭として挙げられる言葉である。


 この言葉は小さなものでも積み重ねれば大きなものになるという意味で用いられる。日々の小さな積み重ねに対する肯定であり、非常にポジティブな意味を持つ言葉として広く使用されている。

 しかし、一体何によって山となることが保証されるのか。私は幼き頃少額の必要なき出費をした際によく母親からこの言葉をかけられた。しかし、その出費は山となるまで積りうるのか。「塵も積もれば山となる」という言葉は、塵が山となるビジョンが見えていて初めて意味をなす言葉である。

 私は何も小さな努力の積み重ねを無意味だと否定しようとしているわけではない。けれども、目的の達成を心から希求する者にとって、この言葉は短期的な慰めにはなりうるが、実質的な解決には何の役にも立たない。この言葉は現在の過程を勇気づける意味を持ちながらも、同時に未来の結果からの逃避を意味し得る。私は、この言葉の現在の過程を勇気づける意味のみを取り出して、こう言い換えたい。 

「山を目的として塵を積むのではなく、塵を積むことそれ自体を目的とせよ。」

2コメント

  • 1000 / 1000

  • R

    2018.05.11 07:57

    @NIDCS山になるかどうかに、小さな行いを続けたかどうかは関係ないのにあたかもそれが因果関係にあるかのように結びつけているところが問題なんだよね。続けることは重要だよ。でも、山を目指している者にとって重要なことはそれが山になるかであって、続けることではない。この言葉は未来に対する言及をしていながら、それについては一切保証はない。だからこの言葉には半分嘘が入っている。俺の問は「続けても山にならなかった場合どうするの?」てことで、そのことを無視しているから、未来の結果からの逃避になる。
  • NIDCS

    2018.05.10 14:29

    「好きな言葉・あまり好きではない言葉特集』非常に魅力的に感じるので、今後が楽しみである。 「塵も積もれば山となる」という言葉は、塵のように小さい行いで良いので、努力して続けなさいということなのだろう。その意味では「続ける」ことにこの言葉は重点を置いているように考えられる。しかし同時に、「小さい行い」という妥協的な側面も含んでいる。どうせ行うのであれば、小さくなくてよいのかもしれない。 Rの考える「未来の結果からの逃避」とはどういうものなのか気になる。