原因は結果以上である

原因は結果に少なくとも等しいか、もしくはより大きいというのが、自然の法則であると考えられている。

三木清「人生論ノート」p.13


私の考えの中の重要な仮定の一つが「原因は結果以上である」ということである。

ここでは、このことが正しいのかどうかの検証は特に行わず、このことがどれほど強力で汎用性が高いかを見ていきたいと思う。(ちなみに私の少ない経験の中では矛盾する出来事はまだ出会っていない。)


作者と作品

まず、一例として三木清が挙げている「作者と作品」の関係について見てみよう。

この関係においては、作品が結果であり、そしてそれを生み出した作者が原因であるということになる。

従って「原因は結果以上である」であるという仮定に照らすと、「作者が作品以上である」ということができる。このことから例えば以下のことを言うことができる。


その人の作ったものが蘇りまた生きながらえるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらえる力をそれ以上に持っていないということが考えられうるであろうか。

三木清「人生論ノート」p.13


作品が不死であるとすれば、その結果の原因たる作者はまた不死であるということができるということだ。例えば、ベートーヴェンの交響曲第九番が未来永劫忘れ去られることのない不滅の力を持つとした場合、その作者たるベートーヴェンもその力を有するということになる。


原因から結果を評価する

原因と結果の大体のイメージはつかめていただけただろうか。

次に「原因は結果以上である」という仮定から私が普段意識している「原因から結果を評価する」ということを説明する。


我々は物事の評価を物理的現象から判断しがちであるに思う。

しかし、その現象がなぜ起こったのか、即ち原因を探ることによって、その現象に対してより正しい評価を下すことができると私は考えている。


例えば、「友人が石に躓いてジュースをこぼし、私のズボンが濡れた」という現象(結果)を考えてみよう。

結果だけ見ると、友人のせいでズボンが濡れたということになり、これは私にとってひどくマイナスイメージの現象である。

人によっては怒ることもあるだろう。

ここで「原因は結果以上である」という仮定に基づき、再考してみよう。

この場合、この現象が発生した原因はなんだろうか。

友人は石に躓いてジュースをこぼしたのだから意図して起こったことではない。つまり、友人の心には何ら問題はない。

友人は意図せずして、石に躓いてしまった。

このことからこの現象における原因は、「友人の認知能力の限界」であると言う事ができる。

従って「原因は結果以上である」という仮定と合わせると、「友人が石に躓いてジュースをこぼし、私のズボンが濡れた」という結果は「友人の認知能力の限界」という原因以下であるということになる。


ここでまた考えてみよう。

一体私に「友人の認知能力の限界」の限界を責めることができるだろうか。

認知能力はその人の身体に基づく能力であり、これを責めることは速く走れないことに対して速く走れということと同様ではないだろうか。

とすると、それ以下である「友人が石に躓いてジュースをこぼし、私のズボンが濡れた」という結果も責めることは出来ない。


さらなる例として、「友達の悩み相談に親身に乗り、悩みを解消した」ということを考えてみよう。

これは結果だけ見ると非常にいいことである。わざわざ己の時間を友人のために費やした非常に献身的行為であるように思われる。

しかし、この場合の原因が例えば「友達に悩みを相談されまたそれを解決するということにより、友達より優れているんだという優越感を得るため」であった場合どうだろうか。

少なくとも私にとっては、優越感や虚栄心は最も忌むべき習性であるからこの原因はマイナスイメージなものである。

ということは「原因は結果以上である」という仮定と合わせると、「友達の悩み相談に親身に乗り、悩みを解消した」という一見プラスイメージな行いは、マイナスイメージの原因以下、即ち更にマイナスなこととなる。

どれだけそれが善なる行為に見えたとしても、原因たる動機が悪ならばそれは悪なのである。

偽善かどうかは、その行為の善悪ではなく、動機の善悪に関わってくる問題であろう。

表層的な結果としての物理現象をみるのではなく、原因を考えることによって深層にあるものが見え、現象はまた違った見え方を呈する。


WhatとWhy

WhatとWhyの関係においてWhatを結果とした場合、Whyは原因となると思われる。

もちろん、厳密にWhatの原因がWhyのみであるというわけではない。

Whatを為すにはそれをするための身体や環境等必要なものがあるであろう。

しかし殆どの場合、Whatを為すための精神たるWhyが原因の大部分を占めている。

特に、Whatがまだ行われていないことであった場合はそうである。

ということでやや厳密性には欠けるが「原因は結果以上である」という仮定は次のように言い換えることができる。


WhyはWhat以上である。

何をやるのかよりも何故やるのかが重要である。


このことは私にとって非常に重要な考えであり、自分の意思決定にとっても、人の行動の評価にとっても、一つの大きな判断基準となっている。

2コメント

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  • R

    2018.04.04 08:23

    @NIDCS「以上である」っていうのが難しいんだよね。 多分、力とか偉大さとかそういうのだと思う。 もの全体としての総合的力だね。 何を比較しているのかをきちんと見極めないといけない。 君の美しさの例じゃなくもっと明瞭な例を出すと、「おいしいカルボナーラを作る料理人は、そのおいしいカルボナーラ以上である」ってしたときに、カルボナーラよりその人間の方がおいしいかって言われたらそんな訳はない ここで比較されているのは、人に美味しいと思わせる力のこと 人に美味しいと思わせる力を持っている人自身が必ずしもその人間を食べておいしいわけではない インスタ写真で言えば、美しいインスタ写真の作者は、その美しいインスタ写真以上に人々に美しいと思わせる力を持っている。 しかし、それは必ずしもその人自身の容姿ではなくて、その人の力によってなされるもの、たとえばもっと美しい写真を作るとかによって人々に美しいと思わせることができる
  • NIDCS

    2018.04.04 07:09

    この記事を読んで、二つのことを思った。 まず一つは、僕がどこかで読んだもので、共感している言葉に「自分が思う、自分より劣っている人は自分と大体同じで、自分が思う、自分とレベルが大体同じ人は自分より少し優れており、自分が思う、自分より優れている人ははるか上をいっている」がある。君がこの記事で書いていることは、過去に僕がふと感じたことがあるものであって、僕にとって目新しい考えではないのだが、それを現時点で言語化しまた書き記しているということは、少なくとも僕よりはるか上をいっている証拠なのだろう。 そしてもう一つなんだが、実は僕も「作者と作品」について最近考えていたんだ。それは先日上野動物園に行った時に、実物大のゴリラが思ったより小さかったという感想とも似ているのだが、最近の画像や映像の修正・編集技術は実に優れていて、文字通り美しい部分だけを視聴者に提供することが出来てしまう。どういうことかというと、例えばインスタグラムに上がっているような、インスタ映えするような写真であったり自撮り写真は、果たして作者以上と言えるかどうかということである。 この記事の意味的には「人々が美しいと思える写真を撮る技量のある作者は、その美しい作品以上である(少なくとも美しいとは何かを知っている)」ということなわけだが、最近では美しい部分だけを寄せ集めるのは容易になってきていると思う。 ベートーベンの件について、あるいはベートーベンの事例と同等のものについては賛成なのだが、必ずしも全てのことについて「作者は作品以上」が当てはまるとは直感的に思えない。そこに何かしらの違いがあるように思える。 また余談ではあるが、これには作者を正当評価できるような能力も必要になってくるだろう。