個性
今回取り上げるテーマは「個性」である。
私が思う「個性」と私が普段接する他者が思う「個性」に乖離があると感じたため、「個性」について整理しようと思った次第である。
多くの人の「個性」の認識
我々は普段どのようなときに「個性」という言葉を使うだろうか。
また、どのような人に対して「個性的」であると感じるだろうか。
例えば、学生が同じクラス内にいる同級生に対して「都築くんは個性的だね」などと使う場合がある。
この場合、都築くんはなんらかの要素、例えば話し方が変だとか行動が変わっているだとか見た目が変わっているだとかにより、その発言者が知りうる人物や所属する領域内において特殊な人物であると都築くんを判断したということになるであろう。
このように「個性」は多くの場合、「あるコミュニティ内におけるその人物の特殊性」という意味合いで使われることが多いように思われる。
「あるコミュニティ内において」という前置きがしてあるのは、一般的に認識されている個性はその人物が所属するコミュニティが変化すれば消え失せてしまうことが多々であると私は考えているからである。
例えば、「数学がすごく好きで授業間の休憩時間も友達とあまりかかわらずにずっと数学の問題を解いている地方公立小学校に通う小学生」がいて、彼は教師や同級生から個性的であると思われているとしよう。
彼は、他の小学生が休憩時間に皆外でサッカーや野球をしているのに対して、教室で数学をやっていて、きっと一般的文脈で「個性的」、「変わり者」と称されるような人であることだろう。
しかし彼が学校というコミュニティから離れ、ある大学が主催する数学好きの小学生向けの数学セミナーに参加したとしたしよう。
そこに来る小学生は数学が好きな変わり者ばかりであり、学校では個性的な人物であると判断される。即ち彼と似たような人物のコミュニティということになる。
その場においては、彼が学校で発揮していたような個性は失われる。ここでは数学好きという特殊性はなくなっているからだ。
我々が個性的だと思う属性は、多くの場合特殊性や少数性と言い換えられ、その特殊性によってその人物ただ一人に特定されるコミュニティ内においてしか発揮されない。
私が考える個性
一方、私が考える個性はそういった特殊性ではなく、「その人物が唯一の存在である」という個性である。
数学を例として次のような問を考えてみる。
A={2,4,6,8,9,10}という集合Aにおいて、もっとも個性的な数はどれであるか?
どう思われるだろうか。
最も予想される答えは以下だろう。
9のみが奇数でほかは偶数であるため、最も個性的な数は9である。
確かにその通りで9だけが奇数で仲間はずれであるから9は個性的に思われる。
しかしこのような個性は、上に挙げた数学好きの小学生と同様で9が奇数ばかりの集合の中に移動した途端に失われる。
一方私は集合Aの中で個性的な数はと聞かれたら、「すべて」と回答する。
なぜなら、2も4も6も9も一つしか無い「要素」であるから。
人間であったとしても同じことだろう。
私も都築くんも一人しか存在しない「要素」であるため、その時点ですでに個性的なのだ。
従って私から見た場合、個性がない人など存在していない。その人がその人であるという点だけですでに私にとって唯一の存在であり、個性を持っている。
人を「要素」として捉える
私はあまり人に対して偏見や差別はないと自分では思っているのだが、それは人を「要素」として捉えている故であると考えている。
差別や偏見は、人を集合として捉えているという前提があるように思われる。
ある黒人が白人という集合に属していないというだけで差別され、ある人物が女性であると言うだけで感情的な人物であると偏見が持たれる。
すべて集合を前提に考えている。
人を集合で捉え、カテゴライズ化するが故に偏見や差別が生じる。
一方、人を要素であると捉えると、ただそこにあるのはその相手と自分との一対一の関係のみであり、集合の傾向の反映はない。
今目の前にいる都築くんは男性や学生、日本人という集合に属しているということよりも先立って、唯一無二の要素であり、どんな言葉でも表現することが出来ない存在であるだろう。
もちろん、要素として捉えることは非常に難しい。私もなるべく要素として捉えるようにしているが、自分自身の要素すら見い出せていないのに、相手の要素を見出すことは不可能である。それ故、どうしても曖昧な暫定的な集合として捉えざるを得ない。
しかし、相手をどの集合に属するかどのような属性を持つのかという塊で捉えるのではなく、相手を唯一の要素と捉えてそれを見出そうと接することは、人間関係のおいて重要なことであると私は考えている。
抽象的な概念と言語はすべてのものから個性を奪って一様に黒塊を作り、ピーターとポールとを同じにする悪しきデモクラシーをおこなうものである。私は普遍的な類型や法則の標本もしくは伝達器として存在するのであるか。しからば私も言わねばならない、「私は法則のためにではなく例外のために作られたような人間の一人である」と。七つの天を量りうるとも、誰が一体人間の魂の軌道を計ることができよう。私は私の個性が一層多く記述され定義されることができればできるほど、その価値が減じてゆくように感じるのである。
三木清 「人生論ノート」p.161
「個性的」を再定義する
皆が個性を持っているのだから、私にとって「個性的」という言葉はすべての人に当てはまり何の意味も持っていないかというとそうではない。
私は、この「唯一の存在、要素」という意味における個性において、「個性的」を以下のように再定義している。
「個性的」とは「どれだけ要素らしく振る舞っているか」を表す指標である。
多くの人は「要素」としてではなく、「集合」として振る舞っているように思われる。
社会や親や目上の人の言うことに従い、外部から与えられた評価軸に従って、ありのままの要素としての己ではなく、外部から求められる「集合」として振る舞っている。
スミレとして生まれてきたにも関わらず、きらびやかなバラを目指し、スミレとしての要素を失っていく。
個性とはその人が元から持っているものではある。
しかし、その個性を初めから理解し発現できているかというとそうではないだろう。
社会や肉体や空間など様々な制約によってその個性はヴェールに包まれている。
故に、何を目指せばいいのか理解できず、自分とは別のものになってしまうことすら起こりうる。
個性は、三木清の言うように「与えられたものではなくて獲得されねばならぬものである」のであるだろう。
「個性」を獲得する
ひとは自己を滅することによってかえって自己を獲得する。
三木清 「人生論ノート」p.165
個性とは「唯一の存在、要素」であった。ではその個性が前提とする集合は何か。
理想的な真の意味の個性を考えた場合、それは他の無限のものとの関係から考えなければならないだろう。
上記の「あるコミュニティ内において」でも説明したが、ある有限の集合の中の個性は、「唯一の存在、要素」としての個性というよりも「特殊性」であった。即ち、「その集合内でそのものが特定できるか」である。
このことから考えても、集合を有限に設定した場合、それは個性ではなく「特殊性」である。
前提とする集合をかなり広く、例えば「全人間」としても同様である。何らかの世界記録保持者は「全人間」の中から特定できる。しかし彼が「要素」としての個性として特定されているかといえばそうではない。
上記で示した集合Aにおいて、10は最も大きい数字だから10は個性的だいう論理と同様である。私が言う個性において10が個性的であるというのは、10が10である唯一の要素である点で個性的だということである。10が最も大きいからではない。
そう考えると厳格に個性を定義するならば、「無限の集合におけるある要素の立ち位置」ということになるだろう。
従って、「個性を獲得する」ということは、無限の集合の中から個性の存在位置を見出すことであるということになる。そしてそのためには、自分を知ることも重要であるが、無限を理解しなければならない。森の中の自分の立ち位置を知るためには森全体を知っていなければならないのと同様である。
こう考えると、上記の三木清の言葉が理解できる。自己を知るために、自己を滅し、全体を理解することによって、かえって自己を真の意味で知ることができるのである。
小川が海へと失われて自分が海であると気づくことは、小川にとって損失だろうか?人間が自分の個性を神の中に失うことは、自分の影を失い、影なき自分の存在の本質を見出すことでしかない。
ミハイル・ナイーミ「ミルダッドの書」p.163
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2018.04.04 08:25
2018.04.04 06:33