定義
私がこのブログを続けていく中で、何らかの言葉の定義を考えるという試みは幾度となく出てくるだろう。それ故に最初の記事として「定義」そのものについて考えてみたい。
「定義」の外観
デジタル大辞泉には以下のように書いてあった。
1 物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。「敬語の用法を定義する」
2 論理学で、概念の内包を明瞭にし、その外延を確定すること。通常、その概念が属する最も近い類と種差を挙げることによってできる。
出典:デジタル大辞泉
「定義」とはこのように何らか曖昧になっている対象を言葉によって明確にしようということである。
基本的には、定義を試みる対象に含まれるものと含まれないものの境界線が「定義」であるように思われる。
宗教を例に取ると、宗教の「定義」にはイスラム教・キリスト教・仏教などのすでに宗教と呼ばれているものは全て含まれ、その他の宗教に該当しない神秘思想や全体主義などの思想は含まれない、そのようなものが求められるというのが基本的な定義の捉え方だと考えられる。
外延的定義と内包的定義
定義にはいくつかの種類が考えられている。
まずは外延的定義と内包的定義の二種類である。
wikipediaの説明を借りると、外延的定義は「それに含まれるすべてを列挙したようなもの」であり、内包的定義は「それら全てが共通して持ち、それに含まれないものは持たないような属性」である。
例としては以下のようになる。
例)集合 A は {1, 3, 5, 7, 9} 、という集合である。(外延)
例)集合 A は 10 以下の奇数である自然数の集合、という集合である。(内包)
出典:wikipedia 「定義」
実体的定義と機能的定義
更に定義には実体的定義と機能的定義の二種類が存在する。
実体的定義はそれ自体がなんであるかを規定するものであり、機能的定義はそれが何をなすかを規定するものである。
宗教を例にすると以下のようになるだろうか。
例)宗教とは、「知能を超えた何ものかの遍在に対する信仰」(ハーバード・スペンサー)(実体的)
例)宗教とは、神話を創造して普及させるため、さらに利他の精神を相互に発揮させるため、そして共同体の成員間でそれぞれの利他と協力の精神の度合いを知らしめるために、人間文化の不可欠な機序として進化した社会的慣習である。(マイケル・シャーマー)(機能的)
実体的定義は、定義を試みる対象そのものに対するアプローチであるのに対して、機能的定義は定義を試みる対象とそれが影響を与える別の対象との関係性から対象を位置づけようというようなアプローチであるように思われる。
私の考えだと、実体的定義の中に外延的定義と内包的定義が含まれている。
「意義」を定める
これ以降は、一般的に「定義」について考えられていることというより、私が考えたことが中心となる。
「定義」を漢字の構成から判断して、『「意義」を定める』というふうに考えてみる。
意義とは何かについて数学者岡潔はこのように言っている。
意義がわかるとは全体の中における個の位置がわかるということである。
出典:岡潔「夜雨の声」p.10
この文章から、意義とは「全体の中における個の位置」であるということが理解できる。
これと、『「意義」を定める』ということから考えると、「定義」とは、「全体の中における個の位置を定めることである」と言うことができるだろう。もちろん、個、即ち要素ではない可能性もある。例えば宗教の定義といえば、キリスト教やイスラム教など複数の宗教と呼ばれるものを含んだ集合としての宗教を定義するということになり、要素の定義ではない。しかし、集合を一つの個として考えれば、一つとしてみることも可能ではある。いずれにしても、「全体の中における対象の位置を定めるということ」が「定義」であると言うことである。
では全体とはなんだろうか。
もちろん、ありとあらゆるすべての集合としてもいいとは思うが、「定義」を試みる際には、その「定義」する対象周辺の諸概念との差別化が図れればいいのであって、ありとあらゆるものから区別される必要はないだろう。宗教の定義であれば、宗教に近い概念、例えば神秘思想や全体主義や哲学などから区別できればいいのであって、鉛筆やパリやスティーブ・ジョブズから宗教を区別する必要はない。
また、「位置を定める」ということは、定める対象は形而上のものであるからもちろん物理的な位置ではなく、対象が全体の中においてどのような位置づけのものであるかということを明確にするということである。
定義する対象
どのような対象に対して定義をしようと試みるだろうか。
まず、まだ存在していない対象に対しての定義があるだろう。例えば、「ガロアは代数方程式の研究のために「群」の概念を定義した」などのように、何らかの目的のための道具として新たな概念を創出するということがある。
続いて、すでに存在している対象に対しての定義がある。これからしようとする「恋人」の定義はまさしくそうなのだが、この対象を更に要素と集合に分けてみる。上述したように、集合であったとしてもそれは一つであるわけだから、要素と同じように一つのものと考えることができるから、分ける意味はないと思われるかもしれない。しかし、ここに重要な認識があると私は考えている。
宗教を例に取ってみよう。宗教は、要素としても集合としても考えることができる。
集合としての宗教は、「キリスト教、イスラム教、仏教など宗教と呼ばれているものの集合」であって、つまり宗教それ自体ではなくそれに内包される要素が先にある。
一方、要素としての宗教は宗教と言う言葉自体を定義しようという試みである。
言葉はそれ自体が真理を内包する。
哲学者三木清は次のように言っている。
あらゆる表現が真理として受け取られる性質をそれ自信においてもっている。
出典:三木清 「人生論ノート」p136
「宗教」という言葉は、今人々が使っている意味とは別にその言葉それ自体が真理を内包している。要素としての宗教を定義しようという試みは、「宗教」という言葉の真理を見出そうという試みであると言っていいだろう。「宗教とは何か」という問に答えようとした際、それは宗教という言葉が持つ真理を探求しようという試みである。
定義することは、基本的に定義することそれ自体が目的であることは少ないように思われるが、「宗教とは何か」といったような言葉の本質を探求する営みは、「定義する」ことを超えた「見出す」というそれ自体が目的となるより高次元の目的に変わるのではないかと思われる。
このあたりの真理とは何かや「見出す」と「定義する」との違いは別途記事にする予定なので、ここではあまり説明しないでおく。しかし、簡単に説明しておくと、「見出す」とは答えを見つけることであるのに対して、「定義する」は答えかどうかは分からないが、答えはあるものであると暫定的に定めておくことであるということである。
定義の広さ
狭義や広義という言葉がある。ある対象を定義しようとした場合、どのくらいの広さで定義するかは問題である。
ここで前述したように定義するという行為が、基本的にはある目的を持っていて、それ自体が目的となることはないというふうに仮定してみよう。
このようにすると、目的に応じて定義の取るべき広さが異なってくる。
目的が、定義する対象の中に含まれるある一つで証明されればいいとした時、定義は狭いほうがより厳しい範囲で論理をすすめることとなる。また、目的が、定義する対象に含まれるすべてにおいて証明したい場合、定義はより広義な方が厳密になる。
どちらにしても、目的をしっかりと見据えた上で定義付けを行うことが大切である。
まとめ
以上をまとめると次のようになる。
「定義」とは、「ある目的のために、不明瞭になっているある対象を、その対象との区別を明確にしたい他の対象周辺におけるその対象の意味的位置づけを明確にすること」であり、定義する対象によって次の3つの種類に分類できる。
1 定義する対象が今まで存在していなかったものである場合
この場合、目的のための道具として新たな概念を明確に作り出すという場合が多いように思われる。
2 定義する対象がすでに存在している集合である場合
この場合、定義する対象に近い別の対象との区別を明確にするという場合が多いように思われる。
3 定義する対象がすでに存在している要素である場合
この場合、対象を完全に見出すことが難しいが論理は進めたいがために、暫定的に定める場合が多いように思われる。
また、それ以外にも機能的定義、実体的定義という種類があり、実体的定義は更に内包的定義と外延的定義に分けることができる。
そして、定義する際には何らか目的を有することが常であるから、その目的から考えて、適切に定義する広さを設定することが重要である。
特に重要だと私が考える点は以下である。
・定義においては、定義を試みる対象はありとあらゆるものから区別される必要はなく、定義を試みる対象周辺の領域内において明確な位置づけがされれば良い。
・定義はほとんどの場合なんらか目的を有する。
・定義は暫定的なものであることが多い。
・定義はそれを行う目的から逆算して適切に定義の広さを考えることが重要である。
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2018.04.04 08:26
2018.04.04 06:04