はじめに

心に思想をいだいていることと胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となる恐れがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめなければ、我々を避けてゆくえもしれず遠ざかる危険がある。

Arthur Schopenhauer


私は頭の中でいろいろな思想を抱くことがある。しかし、基本的に書き留めるということをしないので、その思想が浮かんだときの明晰さは日が立つに連れどんどん薄れていってしまう。まさに、ショーペンハウアーの言うとおりであり、このことは常々問題だと感じていたが、なかなか着手できずにいた。

そんな中、先日友人がブログを開始した。友人のブログを読んでいるうちに、なんとなく書こうかなという気持ちが芽生えてきた。今までもそういうことは何回かあったが、殆どのそういった感情が実際に行動に移される前に消滅してしまっていた。今回は、現在私に時間的余裕があるということもあって、感情が消滅しないうちに行動に移すことが出来そうであった。それゆえ、これを契機として私もブログを始め、私の思想を書きとどめておくということを開始しようと思う。



だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著した本をのぞきさえすれば、見事に完成した形でその中に収められていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理の百倍もまさる。その理由は次のとおりである。第一に、その場合のみ真理は我々の思想の全体系に繰り入れられて不可欠な有機的一部となり、この体系と完全に固く結合し、整然と論理的に理解される。第二に、その真理はその備える色彩、色調、特徴からして、いずれも我々自身の考えから生まれたことを示している。第三に、その真理はちょうどそれを強く要求している時に現れたので、精神の中に確固たる位置を占め、更に消滅することはない。

Arthur Schopenhauer


私がここに書くこととなる思想の殆どもこれまでに誰かが見出したものであり、どこかの本を見ればそれが書いてあることだろう。従って、このブログを読んでくださっている読者がいると仮定した場合、その方にとっては何ら新鮮味のない内容かもしれない。

しかし、ここに書くことは殆どが私自らが思索して見出したものである。ショーペンハウアーが言うようにきっと私独自の色彩、色調、特徴を備えていることだろう。読者の皆様にはその私独自の色彩、色調、特徴を楽しんでいただければ幸いである。

生きるために死ぬ

2コメント

  • 1000 / 1000

  • R

    2018.03.02 15:03

    @NIDCSRinoは日々に疎しではないね。
  • NIDCS

    2018.03.02 12:06

    「去る者は日々に疎し」正に物事の核心に触れるような言葉であり、常に意識しておきたい言葉でもある。